なぜ、文科省という「中央」で決めた案が、全国の学校に一律に適用されるのか? それでは、そもそも、教育のやり方に関する自由市場が機能しない。国のやり方が金太郎飴のように全国で再現されるだけの話である。
トランプ大学で話題になっているが、アメリカには、そもそも大学の「認可」という概念がない。大学は、民間で勝手につくるだけで、ただ、大学同士が、お互いの単位を認め合うかという相互認証の仕組みがあるだけの話である。
大学の「設置基準」を国が定め、その設置基準を満たしたものを「大学」と認定するという日本のやり方は、初等中等教育から続く、教育の「標準化」の思想にもとづいているが、そのことで、教育のイノベーションが起こりにくい風土をつくっている。
文科省が教育のやり方の箸の上げ下ろしまで決め、教科書の内容を「検定」し、大学入試のあり方も決めるという方向性は、決して唯一の道ではない。しかし、日本のメディアは、そのような「そもそも論」のメタ認知を持つことが、きわめて不得意なように見える。
新聞が、一面で「中高校の部活、休養日案」「文科省、来年度にも指針」というような見出しを打つこと自体が、教育の方針は文科省が定め、全国に通達するものであるという前提認識を強めることになる。しかし、その前提自体が、もはや怪しいのではないか。