久しぶりに『二百十日』を読みかえしたのだ。たまたま読んでいなかったというか、おそらく大学生以来くらい? それで、びっくりした。すげえへんな小説で、ポストモダンである。二人の青年が、阿蘇に登山して、ず〜っと会話している。小説ほとんどが、二人の会話。弥次喜多みたい。
その会話の内容が、「華族や金持ちはけしからん」とかずっと一人が言っていて、あげくの果て、「豆腐屋にする」とかよくわからないこと言って、阿蘇にどんどん登っていくんだけど、噴火がすごくて、地響きがして、灰が降っていて、おまけに風が強くなってきて、「これは、二百十日だ」と。
それで、最後は、ずーっと怪気炎を上げていた青年が、「やっぱり豆腐屋にしよう、君もいっしょにやろう」ってオテロの第二幕の幕切れのヤーゴみたいに呼びかけ、突然終わるという、全体としてよくわからない、しかし感動する小説。それが、『二百十日』。こういうヘンなの書いているから、漱石は偉い。
『二百十日』が書かれたのは、『坊っちゃん』と同じ1906年だっていうんだから、わけがわからない。『坊っちゃん』は普通の意味でよくできた小説だが、『二百十日』はおそらく永遠にポピュラーにならない、しかしベートーベンの後期ソナタのように高度な芸術性を持っている、そんな作品である。
『二百十日』の中に、「ゆでたまご」の「半熟」についてのどうしょーもないジョークが出てきて、そこのやりとりがほとんど奇跡なくらいくだらなくて凄いんだけど、そんな場面をほいほい書いてしまう漱石は、のっていた。おそらく、彼にとって小説を書くことが解放であり、救済であったからだろう。』